いま愛知では、3年に一度開催される現代アートの国際展が開かれている。前回までの呼称はあいちトリエンナーレだったが、企画のひとつである<表現の不自由展>が、電凸騒ぎからはじまった抗議行動により会場封鎖となる社会問題にまで発展。今回から《国際芸術祭あいち2022》と名称をあらためて開催となった。
現代アートを紹介する講義を専門学校で3年前から担当している。折角の機会なので、課外講義として学生を引率してトリエンナーレの会場をまわった。だが、回を追うごとに、作品傾向はだんだん視覚に訴えかけるものより、コンセプチャルな観念芸術が多くなってきている。予備知識が求められたり、現代アートの素養が必要であったり、鋭敏な感受性を備えていないと感受できない。くわえて、アートにも世界認識が求められ、各国が抱える諸問題を俎上にあげてゆく海外作家の作品もふえている。歴史認識や各国の諸事情を慮って見ることにもなる。なんだか見る前にずいぶん敷居が高いのである。これでは、学生を連れて行っても展示会場を素通りされてしまう可能性がある。ということで、最低限の予備情報だけ直前の講義で伝えておいた。そして、気に入った作品にくわえて好きではないがなぜか気になる作品を選んで発表してもらうことにした。
時代が世知辛くなってくると、社会ですぐに必要とされないものは切り捨てられしまう。その筆頭格が現代アートである。学生にとってデザインとアートの存在はいまや乖離している。では、知らなくとも良いかというとやはり知らないでは困るのである。クライアントから要求されるリクエストにはアートの知識も混在している。うちあわせの会話の中に登場するアーティストの話題に「はっ?」なんて顔をしてはいられないのである。その場でスマホをとりだして検索する余裕など当然与えてはもらえない。
便利、合理、効率に裏打ちされた即効性のあるものが、現代にとって最優先されてしまう。映画を時短で見るファスト映画なんて流行も起こっている。人生が80年も100年もあったのでは非効率でコスパがわるい。近い将来、20年で駆け抜けるファストライフを推奨される時代が迫っているかもしれないのである。
